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川辺の追憶 ①

Penulis: 秋月 友希
last update Terakhir Diperbarui: 2025-12-16 23:11:25

 リサの車は、市街地を抜けて郊外の河川敷へと向かった。

 ワイパーが追いつかないほどの豪雨。視界は白く煙り、世界が水の中に沈んでいくようだ。

 ハンドルを握るリサの視界が、雨粒によって滲む。

 その不規則なリズムが、リサの脳裏に封印していた「苦い記憶」を呼び起こした。

 ──あれも、今日のような雨の日だった。

 『助けてください。あの人は、皆さんが思っているような良い人じゃないんです』

 かつての依頼人、相田陽子は、震える声でそう訴えていた。

 彼女は夫からのモラルハラスメントと、巧みな精神的支配に苦しんでいた。だが、彼女の夫は地域の顔役であり、誰からも信頼される「人格者」だった。

 当時のリサは、夫の外面の良さと、陽子の精神的な不安定さを見て、判断を誤った。

 『少し神経質になっているだけじゃないですか? ご主人はあなたのことを心配していましたよ』

 そう言って、彼女の訴えを「思い込み」として処理してしまったのだ。

 その一週間後、陽子は自ら命を絶った。

 遺書には、夫による陰湿な支配の記録と、誰にも信じてもらえなかった絶望が綴られていた。

 葬儀の場、雨の中で夫が見せた一瞬の表情──安堵と嘲りが入り混じった冷酷な笑みを、リサは一生忘れることができない。

 「……ッ」

 リサはハンドルを強く握りしめた。

 (私はまた、同じ間違いを犯そうとしているんじゃないか?)

 表面的な「不審者」という情報だけで石場を犯人と決めつけ、その背後にいる「人格者の仮面を被った支配者」──父親の存在を見落としていたのではないか。

 「リサ? 大丈夫?」

 助手席の美咲が、心配そうに声をかける。

 リサは短く息を吐き、首を振った。

 「……ごめん、昔のことを思い出していたの。私はもう、間違えたくない。だから、絶対に真実を見つけるわ」

 車は河川敷の駐車場に滑り込んだ。

 二人は車を降り、傘を差して堤防の上に立った。
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  • 失われた二つの旋律   川辺の追憶 ②

    「……分かる気がする」 美咲が呟いた。「この音の中にいると、自分が誰なのか分からなくなる。……彼も、この音の中で自分を消していたのね」 その時── リサがハッとして、数メートル先の茂みを見た。 誰かがいた形跡がある。 踏み荒らされた草。そして、泥の上に残された新しい足跡。 足跡は、川の方を向いて立ち尽くし、そしてふらつくような足取りで、道路の方へと戻っている。 そこには無数の足跡が残されていた。 狭い範囲を行ったり来たり、何度も、何度も……。まるで檻の中の獣が徘徊するように、同じ場所を執拗に踏み荒らした形跡がある。「誰か……来ていたみたいね」 リサが足跡を目で追うと、ガードレールの近くに、泥にまみれた何かが落ちているのに気づいた。 リサは駆け寄り、それを拾い上げた。 小さな金属製のボタンだ。アンティーク調の、少し変わったデザインをしている。「これって……」 リサの脳裏に、ある記憶が微かに過った。 カフェで美咲に見せてもらった写真──エミリアと話していた石場が着ていた古びたコート。不鮮明な記憶だが、確かこんな風合いのボタンが付いていたような気がする。 だが、確証はない。どこにでもある既製品かもしれない。「何か見つけたの?」 美咲が不安そうに覗き込む。「美咲、これを見て……見憶えない?」 リサは泥を払い、そのボタンを美咲に差し出した。 美咲はそれを覗き込み、息を呑んだ。「まさか、石場が着ていたコートのボタンじゃ……」 二人の視線が交錯する。「ここに来たのかな」 美咲が震える声で呟く。 リサは足元の泥を指差した。 この場所に石場が来たのだとしたら、一体、何の為に…… 何かを探していたのだろうか。 そうではないとしたら、とても正常な精神状態とは思えない、激しい葛藤と混乱の痕跡──「ここに誰かがいたのは間違いない。……そして、ひどく取り乱していた」 美咲の顔色が蒼白になる。 この異常な徘徊癖── カフェの店員や同僚たちが語っていた、石場の奇行と重なる。いや、それ以上だ。 泥に残された足跡の乱れは、彼がここで何か恐ろしい記憶と格闘し、発狂寸前だったことを物語っているようだった。

  • 失われた二つの旋律   川辺の追憶 ①

     リサの車は、市街地を抜けて郊外の河川敷へと向かった。 ワイパーが追いつかないほどの豪雨。視界は白く煙り、世界が水の中に沈んでいくようだ。 ハンドルを握るリサの視界が、雨粒によって滲む。 その不規則なリズムが、リサの脳裏に封印していた「苦い記憶」を呼び起こした。 ──あれも、今日のような雨の日だった。 『助けてください。あの人は、皆さんが思っているような良い人じゃないんです』 かつての依頼人、相田陽子は、震える声でそう訴えていた。 彼女は夫からのモラルハラスメントと、巧みな精神的支配に苦しんでいた。だが、彼女の夫は地域の顔役であり、誰からも信頼される「人格者」だった。 当時のリサは、夫の外面の良さと、陽子の精神的な不安定さを見て、判断を誤った。 『少し神経質になっているだけじゃないですか? ご主人はあなたのことを心配していましたよ』 そう言って、彼女の訴えを「思い込み」として処理してしまったのだ。 その一週間後、陽子は自ら命を絶った。 遺書には、夫による陰湿な支配の記録と、誰にも信じてもらえなかった絶望が綴られていた。 葬儀の場、雨の中で夫が見せた一瞬の表情──安堵と嘲りが入り混じった冷酷な笑みを、リサは一生忘れることができない。 「……ッ」 リサはハンドルを強く握りしめた。 (私はまた、同じ間違いを犯そうとしているんじゃないか?) 表面的な「不審者」という情報だけで石場を犯人と決めつけ、その背後にいる「人格者の仮面を被った支配者」──父親の存在を見落としていたのではないか。 「リサ? 大丈夫?」 助手席の美咲が、心配そうに声をかける。 リサは短く息を吐き、首を振った。 「……ごめん、昔のことを思い出していたの。私はもう、間違えたくない。だから、絶対に真実を見つけるわ」 車は河川敷の駐車場に滑り込んだ。 二人は車を降り、傘を差して堤防の上に立った。

  • 失われた二つの旋律   矛盾する二つの顔 ⑤

     リサは一度言葉を切り、美咲が持参したスケッチブックと楽譜に再び視線を落とした。『Kへの手紙』──エミリアが石場に託した、魂の共鳴の証。 私がアパートで感じた底知れぬ闇と、目の前にある純粋な魂の交流の記録── この二つの石場像は、あまりにも矛盾している。感情が欠落した人間に、音楽の深い悲しみを理解できるはずがない。 リサは唇を噛み、視線を記事と楽譜の間で行き来させた。「どちらが本当の石場なんだろうね……」  その言葉は、美咲の胸にも突き刺さる。「怪物なのか、迷子なのか……。私たちが見ているのは、同じ人間なのに、まるで二つの顔が重なっているみたい」 美咲は震える声で応じた。 二人は互いに視線を交わした。 その瞳には、答えの見えない迷路に迷い込んだ者同士の困惑が映っている。 もし石場が怪物であるなら、この楽譜に込められたエミリアの想いは一体どうなるのか。彼女は虚像を見ていたことになる……。たとえ、それが虚像であろうと、一時的な安らぎであろうと構わなかったのかもしれないが…… もし石場が「迷子」であったなら、そして、もし彼が本当にエミリアを殺していないのだとしたら、彼女はどこへ消えたのか?「美咲、あなたの直感と、この楽譜が正しければ……石場和弘は怪物じゃない。ただの傷ついた『迷子』よ。だとしたら、彼を怪物に仕立て上げ、罪を被せようとしている『本当の怪物』が別にいるはず」 楽譜に刻まれた旋律は、彼女自身の孤独の叫び──「つまり……本当の怪物は、まだ暗闇の中にいるってことね」 美咲はリサを見据え、そっと呟いた。 二人の間に、再び重たい沈黙が落ちる。 雨音が窓を叩き続ける中、父親の影がじわりと場面全体を覆い始めていた。「行ってみない?」 リサが意を決したように言った。「彼が兄を見殺しにしたのか、それとも悲しみの中で立ち尽くしていただけなのか。その原点を見れば、エミリアに対して何をしたのかも分かるはずよ」「原点……」「兄が亡くなった川よ。……今なら、雨が降っている」 リサは伝票を掴み、立ち上がった。 相反する証拠を手にした二人が向かうのは、すべての因縁が渦巻く過去の現場── 外の雨音は、さらに激しさを増していた。それは石場の意識を覚醒させる呼び鈴のように、街全体に響き渡っていた。

  • 失われた二つの旋律   矛盾する二つの顔 ④

    「それが違うかもしれないのよ、リサ」 美咲は視線を逸らしながら、ゆっくりと言葉を置いた。「美咲?」「あの日、倉庫で追いかけられた時の恐怖は、今でも消えていないわ。あの時の彼は、言葉も通じない獣みたいだった。……だから、彼が危険だということは身に染みて分かってる」 美咲は自身の腕を抱きしめるようにさすった。蘇る恐怖を必死に抑え込んでいるようだ。「でもね、リサ。これを見て」 美咲はバッグから、大切そうに包まれたスケッチブックと一枚の楽譜を取り出して、テーブルに広げた。「これは……?」「エミリアの日記と、彼女が書いた楽譜よ。アレックスの家で見つけたの」 リサは手書きの譜面に目を落とした。 タイトルには『Kへの手紙』とある。「『K』……和弘のこと?」 リサが眉をひそめて呟いた。「たぶんね。エミリアの日記には、こう書いてあったわ。『彼の目には、私と同じ色が宿っている。世界から弾き出された、迷子のような色』って」 そう言って、美咲は苦しげに顔を歪めた。 過去にピアノを弾いていたから分かる。複雑で、どこか物悲しい旋律…… その下の余白に、エミリアの筆跡でメッセージが記されていた。『あなたが聴いてくれたから、私はひとりじゃなかった。ありがとう。私の、たった一人の共鳴者(リスナー)』「リサ、わたし分からないの。私が倉庫で見た『怪物』のような彼と、エミリアが見ていた『孤独な迷子』のような彼。……どっちが本当の彼なのか。それとも、私の目が恐怖で曇っていただけなの?」 美咲の声は震えていた。楽譜が示す「理解者」としての石場を信じたい気持ちと、自身の体験した恐怖が矛盾し、彼女の中で答えが出せずにいる。 リサはスケッチブックのページを開いた。 そこに綴られていたのは、ストーカー被害の恐怖などではなかった。 そこにはカフェの片隅で一人佇む男のスケッチがあった。背中を丸め、周囲の雑踏から切り離された孤独な男。石場だろう。 しかし、その絵から受ける印象は、不気味さではなく、胸が締め付けられるような切実な寂しさだった。エミリアの温かい眼差しが、鉛筆の線一つ一つに宿っている。「エミリアは彼を恐れていなかった。むしろ、自分と同じ、音のない世界を持つ彼に救いを感じていたのよ」 美咲はリサを見つめた。「リサ、あなたが妹から聞いた、兄の遺影の前で笑っていた。と

  • 失われた二つの旋律   矛盾する二つの顔 ③

    「これを見たら分かるわ」 検索窓に『石場健太』『水難事故』と打ち込む。 数秒のロードの後、二十数年前の地方紙の縮刷版が表示される。「……あったわ」 小さな囲み記事。リサは画面を拡大し、美咲にも見えるようにテーブルの中央に置いた。『悲劇の夏休み 男児、増水した川で転落死』 数十年前の事故記事。兄・健太の死を伝える古い紙面だ。「彼には兄がいたわ。健太という名前の。でも、幼い頃に川で溺れ、亡くなってる。事故死らしいの。由美子さんは、そうは思ってなさそうだったけどね」「お兄さんが……」「記事には、当時八歳だった石場健太くんが、川で足を滑らせて流され、数キロ下流で遺体となって発見された経緯が記されているわ。そして、第一発見者である弟・和弘についての記述もね」 リサは記事の末尾を指差した。『一緒に遊んでいた弟(六歳)が帰宅し、母親に事故を伝えた。駆けつけた消防団員によると、弟は現場の様子を落ち着いた口調で伝えていたという』「……落ち着いた口調?」 美咲の声が震える。「兄が流されたのよ? 普通の子供ならパニックになって泣き叫ぶはずでしょう?」「ええ。でも、彼は冷静だった。妹の由美子さんの証言と一致するわ。その由美子さんがね、葬儀の時に見たそうよ。兄の遺影の前で、石場和弘が肩を震わせて笑っていたのを」「笑っていた……?」 美咲が息を呑む。「ええ。泣き叫ぶ『和弘』の人格が土倉で壊れ、代わりに現れた『怪物』が、邪魔な存在を排除したのかもしれないってこと。少なくとも妹の由美子さんはそう思ってる。……美咲、あなたの直感は正しかったのよ。倉庫であなたを追ったのは、その怪物かもしれない」 リサの言葉は重かった。「これが記録された事実よ。彼は兄が死ぬのを、ただ見ていた。もし彼に人の心が欠落しているなら、エミリアに対しても同じように、冷徹に処理できたのかもしれない」 幼少期の虐待が生み出した、感情を持たない怪物──それが石場和弘の正体だとするなら、エミリアはその犠牲となった可能性がある。 そして父親は、その怪物を檻に閉じ込めつつ、世間の目を欺くためにあらゆる問題を隠し続けてきた。そう考えることはできないか。 だが、美咲は、それを払いのけるように、ゆっくりと首を横に振った。

  • 失われた二つの旋律   矛盾する二つの顔 ②

     リサは身震いを押し殺し、美咲を見据えた。「仮にその人が父親だとするなら、息子が暴走して、自分たちが隠蔽してきた過去の罪が暴かれるのを恐れるのではないかしら」 リサの言葉に美咲は息を呑んだ。 妹・由美子の証言通り、石場和弘という人物は幼少期の虐待で壊れた被害者だ。だが、その加害者である父親は、今もなお健在であり、暗闇の中から何かを画策している──その可能性は十分にある。 監視しているのは、石場だけではない……「エミリアの失踪に、その父親が関与しているとしたら、全て辻褄が合うのよ」 リサの呟きが、重く響く。「……どういうこと?」 美咲は思わず身を乗り出した。瞳がわずかに揺れ、唇が震えている。「石場は不器用で感情のコントロールができない。そんな人間に、警察の捜査すら欺く完璧な証拠隠滅ができると思う?」 リサが美咲を見据える。「確かに……。私を襲った時の彼は、もっと杜撰で感情的だった。獣のように吠えて、ただ追いかけてくるだけで……計画性なんて感じられなかった」 過去の虐待により生まれた攻撃的な人格。それは由美子の証言や美咲の体験と一致する。「でしょう? エミリアの失踪は、あまりにも痕跡がない。遺留品一つ落ちていないのよ。あまりにも不自然だと思わない?」 エミリア失踪の犯人像は、もっと冷静で計画的な人物だ。石場ではない「誰か」の可能性が浮上してくる。 リサは真剣な眼差しで美咲を見つめ、そして続けた。「彼を支配していた父親が、仮に冷酷で世間体を何よりも重んじ、計算高いとしたら?」 美咲の顔から血の気が引いていく。「まさか……。石場さんが犯人じゃなくて、お父さんが……」「まだ推測の域は出ないけどね。でも、可能性は捨てきれないわ」 リサは言葉を切り、厳しい顔で続けた。「そして妹さんの話だけど、石場和弘は、幼少期に父親から凄惨な虐待を受けていた。粗相をするたびに裏庭の土倉に閉じ込められ、暗闇と恐怖に晒され続けたの」 リサは過去に目を向けるように声を落として言った。「土倉……」「そう。そして由美子さんの証言によれば、ある大雨の夜を境に、彼は変わってしまった。何が起きても感情を表に出さない人物にね」 リサはスマートフォンを取り出し、デジタルアーカイブのアプリを立ち上げた。

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